佐古忠彦 監督作品 太陽(ティダ)の運命

ティダ、それは太陽を意味し、その昔「リーダー」を表す言葉だった
作品紹介
沖縄にはこの国の矛盾が詰まっている——筑紫哲也 沖縄にはこの国の矛盾が詰まっている——筑紫哲也
政治的立場は正反対であり、互いに反目しながらも国と激しく対峙した二人の沖縄県知事がいた。1972年の本土復帰後、第4代知事の大田昌秀(任期1990~98年)と第7代知事の翁長雄志(任期2014~18年)である。ともに県民から幅広い支持を得、保革にとらわれず県政を運営した。大田は、軍用地強制使用の代理署名拒否(1995)、一方の翁長は、辺野古埋め立て承認の取り消し(2015)によって国と法廷で争い、民主主義や地方自治のあり方、この国の矛盾を浮き彫りにした。大田と翁長、二人の「ティダ」(太陽の意。遥か昔の沖縄で首長=リーダーを表した言葉)は、知事として何を目指し、何と闘い、何に挫折し、そして何を成したのか。そこから見えるこの国の現在地とは―。
沖縄戦後史を描いた『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』2部作(2017/19)、戦中史を描いた『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』(2021)に続く佐古忠彦監督最新作は、それぞれの信念に生きた二人の知事の不屈の闘いをたどり、その人間的な魅力にも光を当て、彼らの人生に関わった多くの人々の貴重な証言を交えて沖縄現代史に切り込んだ、全国民必見のドキュメンタリーだ。
監督
監督佐古忠彦
佐古忠彦
監督からのメッセージ
沖縄に通い始めて四半世紀以上になる。その時間は、取材でお世話になった方々との出会いはもちろん、ともに取材し、情報を交換し、議論する時間を共有してきた沖縄の仲間たちの存在なくしては、決して成り立たない。2022年、復帰50年の年の夏のことだった。そんな仲間たちと、次回作の構想についての話になったとき、私はこう言った。
“沖縄の民意を示す「沖縄県知事」が国との対応に苦悩する姿を描くことで日本の問題を浮き彫りにできないか―”。
それは、「米軍(アメリカ)が最も恐れた男」で、カメジローこと瀬長亀次郎を通して描いた戦後史、次に、その原点を伝えたいと、時代を遡り「生きろ」で描いた沖縄戦から地続きの歴史の上にある、いわば現代史だ。では、現代史を紡ぐうえで、なぜ「沖縄県知事」なのか。過酷な地上戦のあと沖縄にやってきたのは、平和ではなく、27年に及ぶ軍事占領だった。復帰後は、沖縄の米軍統治と引き換えに復興の道をひた走った本土との差をいかに縮め、本来の沖縄の姿を取り戻すか、その道筋はいかにあるべきか、その課題の中で、常に「保守か革新か」「基地か経済か」の選択を迫られてきた沖縄の象徴が県知事である。その存在そのものが、そのまま戦中、戦後から苦難の道を歩み続ける沖縄の現代史を体現していると考えるからだ。
共感してくれた仲間たちとの議論は、映画の「共同制作」に発展した。系列局がタッグを組んで構想段階からともに議論を重ねながらドキュメンタリー映画を創っていくのは、初めてのこと。制作は、この30年間、両局の先輩、仲間たち、そして私自身が取材してきた映像の一つ一つに向き合うことから始まった。そして、日々のニュースとして伝えてきた、その一つ一つの点を、30年という時の流れの線につなげてみると、そこには、なぜ今があるのか、の答えがあった。
右とか左とか、保守とか革新とか、本土と同じような単純な対立の図式で割り切れないのが、沖縄だ。保守の知事が政府と対峙し、革新の知事も政府と協調した歴史がそれを物語っている。そして、そこに見えるのは、行政官としての立場と、民意を背負った政治家としての立場のはざまで苦悩する姿である。稲嶺元知事はよくこう話してくれた。「毎晩泡盛の力を借りないと眠れなかった。知事を辞めた途端、酒は一滴も飲む必要がなくなった」。重圧を背負いながら、国と、アメリカと、県民と、そして自分自身と向き合い続けるのが沖縄県知事なのだ。47都道府県のリーダーの中で最も特異な存在といえる。
その8代の知事の中でスポットを当てるのは、第4代知事の大田昌秀と第7代知事の翁長雄志。この国と沖縄をめぐる現代史は、ほとんどこの30年の辺野古の歴史と言っていいが、そこに深く関わっているのが、大田と翁長だ。二人は、人間として、知事として、何を目指し、何と闘い、何に苦悩し、何に挫折し、そして、何を成したのか。沖縄戦という原点を同じくしながら、政治的立場の違いからの相剋。しかし、その果てにあったものは何だったのか。そこにこそ「沖縄」があり、それは、この国のありようをあぶりだす。かつて、番組で10年の時を共にしたジャーナリスト・筑紫哲也さんは「沖縄に行けば、日本がよく見える」と言っていた。「沖縄県知事」に、私たちの国のどんな姿が見えるだろうか。
プロフィール
1988年、東京放送(TBS)にスポーツアナウンサーとして入社。スポーツ中継・スポーツニュース番組を担当した後、1994年報道担当に。1996年から「筑紫哲也NEWS23」でキャスターを務める傍ら、ディレクターとして沖縄、戦争、基地問題などを主なテーマに特集制作。2006年から政治部で民主党や防衛省、デスクなどを担当、その後もキャスターを務めながら、ドキュメンタリー制作を続ける。2016年「米軍が最も恐れた男~あなたはカメジローを知っていますか」でギャラクシー賞奨励賞。追加取材を経た劇場用映画初監督作品「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」(2017)で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、米国際フィルム・ビデオフェスティバルドキュメンタリー歴史部門銅賞、日本映画ペンクラブ賞文化部門1位など受賞。続編となる「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」(2019)で平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞受賞。2021年「生きろ 島田叡‐戦中最後の沖縄県知事」、2025年「太陽(ティダ)の運命」発表。近年は「報道特集」で沖縄、戦争、政治などを主なテーマに特集制作を続けている。昨年7月、今作との連動作品「沖縄県知事 苦悩と相剋の果てに」(RBCテレビ)を制作した。 著書に「米軍が恐れた不屈の男 瀬長亀次郎の生涯」(2018講談社) 「いま沖縄をどう語るか(共著)」(2024高文研)。
1988
東京放送(TBS)入社
1996〜2006
「筑紫哲也NEWS23」キャスター
2006〜2010
政治部
2010〜2011
「Nスタ」キャスター
2014〜2017
「報道LIVEあさチャン!サタデー」MC、「Nスタニューズアイ」キャスター
2013〜2021
「報道の魂」「JNNドキュメンタリーザ・フォーカス」プロデューサー
2021
「報道特集」
フィルモグラフィ
2017
『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』
2019
『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』
2021
『生きろ 島田叡‐戦中最後の沖縄県知事』 
2025
『太陽(ティダ)の運命』
大田昌秀
主要人物
大田昌秀
大田昌秀
おおた・まさひで
琉球大学教授から第4代沖縄県知事、社会民主党参院議員、沖縄国際平和研究所理事長。
1925年6月12日、沖縄県島尻郡具志川村(現・久米島町)に生まれる。沖縄師範学校に進学、在学中の1945年3月、沖縄戦で鉄血勤皇隊に動員され、情報宣伝部隊千早隊に所属した。戦後は46年に沖縄文教学校、48年には沖縄外国語学校本科を卒業し、50年に早稲田大学進学。54年に米国シラキュース大学に留学し、ジャーナリズムを学ぶ。帰国後は58年に琉球大学文理学部社会学科講師、68年に同大社会学科教授に就任した。東京大学新聞研究所で3年にわたり研究、73~74年には、ハワイ大学東西文化センターで教授、83~85年には琉球大学法文学部長を務めた。90年3月に琉球大学を辞職し、11月の知事選に出馬、現職の西銘順治を破り第4代知事に。戦後50年の95年に平和の礎を建立し、国籍や軍人民間人の区別なく沖縄戦などでの戦没者を刻銘、沖縄県公文書館の建設や平和祈念資料館の移転改築にも取り組み、平和行政を強力に推進した。一方、95年9月に3人の米兵による少女暴行事件が発生、直後から日米地位協定の改定を訴えた。同じ9月、地主が契約を拒否している軍用地を強制使用するための代理署名を拒否、国に提訴された。橋本総理と17回に及ぶ会談を経て、98年2月、普天間基地の代替施設海上ヘリポートの受け入れを拒否、政府との関係は冷え込み、11月の知事選で稲嶺惠一氏に敗れ、2期8年で県政に終止符。2001年に 社民党から立候補し参議院議員に。2007 年に政界を引退すると、2013年からは特定非営利活動法人・沖縄国際平和研究所を設立し、資料収集、展示公開、講演、執筆活動などで平和を発信し続けた。2017年6月12日、92歳の誕生日に死去。
翁長雄志
翁長雄志
おなが・たけし
那覇市議、沖縄県議、那覇市長を経て、第7代沖縄県知事。
1950年10月2日、沖縄県島尻郡真和志村(現・那覇市)大道に生まれる。父は元真和志市長・翁長助静、兄は沖縄県副知事、県議を務めた翁長助裕、の政治家一家。1975年法政大学卒業。85年から那覇市議2期連続当選、92年から沖縄県議2期、2000年から那覇市長を4期務め、沖縄の保守政治をけん引した。県議時代は、大田県政と真っ向から対立、激しく厳しく大田を批判し、退陣に追い込んだ。自民党沖縄県連幹事長だった1999年、辺野古移設を推進していたが、その後、移設の受け入れ条件などの約束が反故にされ、政権に対し厳しい発言が見られるように。2007年、安倍政権下の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)への日本軍関与の記述の削除、修正の検定意見が出されると、保革一丸となった抗議の県民大会の先頭に立った。2012年にはオスプレイ配備に反対する県民大会の共同代表に、さらに2013年、県内全首長が署名した、オスプレイの配備撤回と普天間基地県内移設断念を求める建白書を携え安倍総理に直訴。その年の暮れ、翁長がその選対本部長を務め、県外移設を公約にしていた仲井眞知事が辺野古埋め立て承認したことで、仲井眞と決別した。「イデオロギーよりアイデンティティ―」を合言葉に、保革の枠組みを越えたオール沖縄勢力を結集し、知事選に挑むと、仲井眞に10万票の大差をつけ圧勝、第7代知事に。「辺野古が唯一」を繰り返す安倍政権と真っ向から対立、辺野古埋め立て承認を取り消したことで大田以来の被告の県知事となり、国と法廷闘争を重ねた。かつて対立した大田と言葉も歩みも重なるようになっていく翁長だったが、任期途中で病に倒れ、2018年8月8日死去。
用語解説
日米地位協定
在日米軍による施設、区域の使用を認めた日米安全保障条約第6条を受けて、施設、区域の使用のあり方や日本における米軍の地位を定めた協定。施設、区域の提供、米軍の管理権、日本国の租税等の適用除外、刑事裁判権、民事裁判権、日米両国の経費負担、日米合同委員会の設置等が定められている。刑事裁判権、米軍の管理権としての基地使用のあり方、環境汚染、被害補償のあり方など様々な問題点が指摘されているが、1960年に締結されて以降、一度も改定されていない。政府は日米地位協定の運用改善によって対応していくことが合理的であると説明しているが、沖縄県は、抜本的な見直しが必要と考えており、国に毎年要請を行っている。
米兵少女暴行事件
1995年9月4日、小学生の少女が3人の米兵に暴行され、全国に衝撃を与えた。米軍は、日米地位協定を理由に、容疑者の起訴前の身柄引き渡しを拒否し、協定の不平等さがあらためて明らかになった。翌月21日には、事件への抗議と基地の整理縮小、日米地位協定の見直しを求める県民総決起大会が行われ、8万5千人が集結した。
普天間基地移設問題~辺野古新基地建設問題
米軍基地の整理縮小を求める沖縄の声に対し、日米両政府は1996年4月、普天間基地の5年から7年以内の返還で合意、橋本総理がモンデール米駐日大使とともに会見で発表した。12月には、普天間基地を含む11の施設の返還で合意。しかし、そのうち7施設は県内移設が条件だった。普天間基地の代替施設は、海上ヘリポート基地を名護市辺野古沖に建設する案が有力となり、橋本総理と大田知事が17回会談を行ったが、1998年2月、大田知事は受け入れ拒否を表明。その後、11月の知事選で大田を破った稲嶺知事が、99年11月、辺野古沖への移設を条件付きで受け入れ表明した。当時の小渕政権は、沖縄県側の要望を尊重した移設計画を閣議決定したが、2006年、小泉政権が米軍再編に伴い廃止し、キャンプシュワブ沿岸部を埋め立てる新たな計画で米政府と合意、沖縄県の反発を買うことになる。日本政府は、99年に地元の合意を得たとしているが、沖縄県は受け入れの条件は白紙にされ、新たな日米合意案は容認できないという立場である。

2009年9月に誕生した民主党鳩山政権が掲げる「県外移設」方針で、沖縄は与野党含めて県外移設で一致するが、2010年5月に政権は辺野古回帰。11月の知事選で仲井眞知事は県外移設を公約に再選されるも、2013年12月、辺野古埋め立てを承認し、県民の大きな反発を買い、翌年、辺野古移設阻止を掲げる翁長県政が誕生した。翁長知事は、承認の取り消しや撤回などで対抗、翁長知事死去後の玉城県政でも軟弱地盤改良工事の設計変更申請の不承認などをめぐるものも含め、国と県の間で14件の訴訟があった。訴訟は和解、取り下げの4件を除き、すべて沖縄県の敗訴が確定した。
教科書検定問題
第1次安倍政権下の教科書検定で、2008年から高校で使われる教科書から、沖縄戦の集団自決(強制集団死)に日本軍が関与したという記述について修正の意見が出され、出版各社がこれに応じた問題。2007年9月29日、歴史の事実に反するとして、検定意見の撤回、記述の復活を求める県民大会が行われ、11万6千人が集結した。現代の県民大会では、最も多くの人が参加した。